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日本語「ぢ」と「じ」の謎

「日本語 ぢとじの謎」

『日本語 ぢとじの謎』土屋秀宇
光文社知恵の森文庫

NHK Eテレの番組『にほんごであそぼ』で「恋そめし」という歌が時々放映されます。
一番と三番のコーラス終わりあたりに

今をとめ 元をとめ 元々をとめ
という歌詞があります。これを

今を止め・・・「時間よ止まれ」よりは文語的だなぁ
  元を止め・・・過去も止めたいのかよ!
   元々を止め・・・輪廻転生かな

と聴いてました、
歌ってるのが「ちーむ・をとめ座」ということを知るまで、結構しばらくの間、をとめ=乙女ってことに気がつかんかったですね。
歌詞を見ずに聴くか、多少とも旧かなに通じてれば、そんな勘違いもないだろっていう恥ずかしい話ですが、ここは「明治までの人は普通に“をとめ”は乙女、国策で仮名遣いを変えてしまった文科省─いや旧文部省─に責任転嫁」しておきませう(^^;

で、表題の本です。

  • 「鼻血」は「はなぢ」なのに、どうして「地面」は「じめん」なのか?
  • 「差し詰め」は「さしずめ」、「大詰め」は「おおづめ」
  • 「世界中」は「せかいじゅう」が本則、但し「せかいぢゅう」も可
  • 火によってとけるから「熔岩」なのになぜ「溶岩」と書くのか?
  • 気持ちがたかぶる(昂る)から「昂奮」〜略〜「昂奮」で代用
なぜこんなにも不可思議な表記になってしまったのか。当用漢字から常用漢字がもたらす弊害。さらには学年別配当漢字や人名漢字の迷走。
これら現代の日本語の矛盾や混乱を漢字廃止・制限派と漢字擁護派とのせめぎ合いの歴史から読み解いていく。
そして「第10章 国語再生の鍵を求めて」「エピローグ 国語が変われば、日本は変わる」では、あるべき日本語教育の提言と日本語が本来持つ優れた表現力、可能性が提起される。

文字の読み書きが出来るだけで大したもんだった時代──世界的にみれば今でもそうだが──おまけに欧米列強に追いつくことが至上命題だった時代、国民があまねく日本語を習得して世界に羽ばたく人材を育てるには日本語をどう改革したもんか、明治以降それは真剣に議論されてきたのでしょう。(公用語を英語やフランス語にすべしといった主張もあったみたいだからベクトルがどこに向いていたのかは怪しいものだが)

そんなお国の努力に関係なく、パソコンやスマフォで難漢字の変換は楽ちんになったものの「この変換辞書アホかいな」と同音異義語を間違え、ペンと紙しかない状況だと「漢字は読めても書けんよなぁ〜」と嘆く日々です。
とはいえ漢字制限政策の反動か、旧漢字(正字というべきか)での記載を求められることはよくあります。
じゃなく」とか「辺は旧字が何十字もあるけどしんにょうの点が二つで作りの下が方じゃなく合みたいなやつ」とか。他にもワープロ普及期に字画の多い字はプリントできないからと作られた略字(「森鷗外さんは鴎外で我慢してね」みたいな字)や中国の簡体字も含めると同じ字のはずなのに形が異なる異体字がわんさかあって、文字に関わる仕事をしている人は結構苦労してるわけです。

さて、この本のタイトル「ぢ」と「じ」で一番に連想したのは「痔」と「字」でした。たまたま友人から痔の闘病話を聞いた直後だったからですが・・・
わ行の「ゐ(wi)」「ゑ(we)」「を(wo)」は「い」「え」「お」と元々は発音が違ってただろうと想像できますが、「ぢ」と「じ」も古来は音が違っていて、今でも地方によっては音を使い分けているとか。どんな発音かわかりませんが、それなら「地震(ぢしん)※」と「自信」も英語の "Vest" と "Best" くらいの違いでしゃべり分けと聞き分けができそうです。
(※お布令では「じしん」)

「痛い痔」じゃなくて「異体字」ってのは印刷業界では割と知られた同音異義語です。どんな状況だったら聞き間違えるかなかなか想像できんけど、「字画」「切れ字」なんかは普段から結構使ってますからねぇ。誤解を生まないように正しい発音を磨くべきでしょう(かな?)
といふことで「脱稿」します(^^;)

2015.09.08

サクラの音がきこえる

「サクラの音がきこえる」

『サクラの音がきこえる』浅葉なつ
メディアワークス文庫

『神様の御用人』が面白かったのでブリで読んだ本

指導教師から「あなたのピアノは確かに上手よ。でも、魂が見えない。心がこもっていない音なの。」と指摘され、雨宮奏恵は、音楽で感動したことがないことに気づく。
卓越した絶対音感の持ち主である彼女は、どんな音楽も(日常の音も)音符として認識され「感じる」ことができない。

『ピアノの森』の雨宮修平を彷彿させます、同じ雨宮姓なのは作者の洒落でしょうか。
雨宮奏恵も雨宮修平もやがて孵化するように「音が化ける」ときを迎えますが、その道のりはただならぬものです。

絶対音感なんて持ってないのでどんな音の世界かわかりませんが、例えばアマチュアバンドで練習曲を決めたとします。人によりけりでしょうけど、その曲はどうしても分析的に聴いてしまい素直には楽しめなかった覚えがあります。
その昔は楽譜も映像付き音源もないのが当たり前だったので、耳コピーに頼るしかなく、悶絶状態が続いてました。今なら音源→音符コンバータみたいなアプリもあったりしないかしら。
それでもメンバーの中には楽器が手元になくても、曲を聴くだけである程度の譜面を書ける人もいてすごいなぁと思ったもんです。

印刷の勉強を始めた頃、講師の先生から「君たちには気の毒な事だが、今後一生、印刷物を見ても素直に楽しめなくなる」と言われました。
本を読んだり、パンフやWebページを見るたびに「うーみゅ、このフォントは何だろ?この紙は?この写真のライティングはどうやってんの?スタイルシートは?」な〜んて悩んでいるわけじゃないので、精進が足りないのでしょう。

2015.09.02

この胸いっぱいの愛を

「この胸いっぱいの愛を」

『この胸いっぱいの愛を』梶尾真治
小学館文庫

「胸いっぱいの愛」は当然 Whole Lotta Love (Led Zeppelin 2nd)のことだろとタイトルだけで衝動買いした本。
もちろんツェペリンや "You need cooling" で始まる懐かしの名曲の話ではなく、20年前の門司、飛行機事故のさなか過去に戻ってしまった登場人物が20年後に引き戻されようとするたびにどこからともなく響く曲として描かれる。

墜落事故に巻き込まれた乗客のうち、20年前(1986年)に強い執着を残していた6人だけが、過去にとばされる。それぞれの過去に決着をつけることができた段階で再び20年後に引き戻されてしまう。 時間は可変であることが前提となっていて、歴史を変えることを妨げる力がはたらいたり、タイムトラベラーパトロールのような存在も出現しない。 そして1986年の彼らが20年経ったとき、再び墜落事故の犠牲者としてアナウンスされる3人と、大きく人生が変わってしまった3人に大別されている。

歴史を変えた側の6人がどこに行ってしまったのかという疑問は残るのですが・・・

それはさておき、1986でなく今から20年前の1995年。 Windows95のお祭り騒ぎも今は昔、Macは漢字Talk7.5。個人的には PowerPC第一世代のMac7100とか8100av(何故かG1Macとは呼ばれんねぇ)で仕事をしていて、アドビの Illustrator とアルダスからマクロメディアに変わったFreeHand とどっちがいいかな?と試していた頃。

というのはどうでもよくて、やはり1月17日の阪神・淡路大震災。災害時のIT活用が注目され、実際さまざまなネットの活用が試みられ日本のインターネット元年と呼ばれるようになったそうです。 うら覚えながら、当時はまだパソコン通信で遊んでいた記憶しかないにしても、翌96年には、ホームページビルダーやアドビ PageMill 日本語販が発売されていますから、ちらほらホームページ作りも広がっていった頃だったのでしょう。

その頃(に限らず過去)こうしおけばよかったなんてのは当然多々あるわけです。
学生時代、先生から「今のうちに勉強しとかんと絶対後悔するぞ」と言われて「後悔も人生の糧だからかまわない」な〜んて応えてた学友がいました。そこまで開き直る気がおきないのは、まぁ恵まれたということにしませう。

しいて後悔するならば、温故知新したくても記憶が霞んでしまってるので、デジタル化以降「記憶にありません、記録にあります」状態にしておけばよかったぁ!でしょうか。それよりも過去の時点で10年後、20年後の社会や自分が全く読めてなかったこと思い知らされる昨今。

2015.08.24

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